僕は大学時代にオーケストラ部に所属していたけれど、それまでの僕ときたら、クラシック音楽と言ったら小学校と中学校の音楽で聴いただけで、それも「魔王」とか「峠の我が家」とか「第九の歌」とか、そんな曲しか知らなかった。
その頃は、交響曲を聴いても主旋律を弾いている楽器の音しか聞こえなかった。
ところが!!
オーケストラ部で、クラシックではあまり出番がない管楽器の、それもトランペットを吹くとなると、メロディを奏でるバイオリンの音を聴かないとだめだし、さらに、一緒の和音を吹くホルンの音も聴かないとだめだし、クラリネットの音も聴かないとだめ、という感じなのだ。
すると、オーケストラ部に入部してブラームスの交響曲などを練習して半年もすると、どんなクラシック音楽を聴いても、全ての楽器の音が個別に聴こえて、さらにそれがひとつにも聴こえるという世界が広がったのだ!!
全然、別世界だった。
それからはクラシックはもちろんのこと、ロックも演歌もJ−POPも全ての楽器の音が聴こえ、編曲の良さ、悪さなんかも分かるようになった。
同じこととして、「俳句」もそうだ。
自分で俳句を作り始めると、「荒海や佐渡に横たふ天の川」とか「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」というそれまでは、「なんてことのない」俳句が、実に奥が深い名作品だというのが分かるようになった。
あのね、「荒海」と「佐渡」と「天の川」しか言ってない俳句の17文字で全世界を、宇宙を表現しているんだよ! ね? 凄いでしょ?
「柿食えば」という「●●すれば」■■なり、ということは、●●が「原因」で■■が「結果」という文法になるけれど、別に「柿を食べる」ことと「鐘が鳴る」ことに何の因果関係もない。
それがいいのだ。
柿を食べたら鐘がなったよ、と、ただ、それだけを詠んでいる。
その絵が目に、ばっちりと浮かぶよね。
俳句を作りたてのころは、いろんなことを言いたくなるし、「ただ、柿を食べていたら鐘がなった」なんて俳句は、そんなの俳句じゃない!とかなんとか言って、すぐに「わび、さび」を入れたり、訓話っぽいストーリーを入れたりしようとする。
それがいけないのだ。
というようなことも、俳句を自分で作ってなかったら、分からなかった世界なのだ。
面白い世界を知ることができた。
ここまでとちょっと毛色は違うけれど、英語のリスニングもそうだ。
英語の勉強を始めたばかりの頃、NHKラジオの「やさしいビジネス英語」なんて、最初から最後までの音がひとつの音にしか聞こえなかった。
でも、勉強を始めて半年もするころに「あれ?全ての単語がちゃんと別々に聞こえるぞ!」となった。
何でも、自分でやってみないと、この世界の深いところが分からない。
これって、とってももったいない話だよね。
だからさ、何でもいいから、ちょっと、これやってみようかなぁ、なって思ったら、即、やったほうがいいい。
とりあえず、始めるのだ。
それが、あなたの人生観と世界観と人生を変えること、間違いない。(ホントだよ。)
posted by ホーライ社長 at 23:00|
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世の中を旅する方法
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